達者で長生きするために
「達者はまだですか」 「先生は、お母さんはお元気ですか?」
時 々 お 客 様 に 聞 か れ る か ら 早 く 書 い て ! 「解 っ た ! 」 「す ぐ 書 く ! 」
と返事をしながら何ヶ月か経ってしまいました。
ロシアの侵攻はいまだ止まらず、ウクライナの人々の辛い ニュースがまだ続いています。
広 島 で の サ ミ ッ ト の ニ ュー ス に 期 待 し た も の の 何 の 変 化 も な く、 そ の 後 8 7 歳の脳細胞も少しずつ働きを低下させていく日々です。
それでも3 月には目黒の雅叙園に出かけて百段の階段を登り、由緒ある雛段飾りの見学も出来ました。何と云ってもびっくりしたのは、 一時から六時までの長い間、雅叙園のあのゆったりとしたソファーでお茶を頂きながらの おしゃべり!よく喋ることの尽きないこと!自分でもびっくり!
( 薬大時代の三人の仲間でした。)
おしゃべりにも相当なエネルギ ーがいるという事なので「私達まだそのエネルギーは残っているんだ!」これも発見でした。
四月には四、四、四の会!
父 の転勤 で九州から岩 手に行き、小四から高 こまで過ごしていた、その仲間達と〇〇ちゃんロ ロちゃんと呼び合う、時には、あのズーズ一弁も混
じ っ た 賑 や か な 会 ! (四 月 の 第 四 月 曜 日 、 四 時 か ら の 会 、 何 十 年続 い て い たのでしょうか? ) でもその間に鬼籍に入られた方も多く少し淋しさも増し
て い ま し た。
今回で打ち止め!腹いっぱいお喋りをして 、お元気でね!と笑顔で別れました。
その数日前、盛岡の親しくしている友人に 「来れるでしょう?」と電話し たら九十二歳 一人置いていけないワヨ!と返事が返ってきました。
「そうですよネ!!」私は家族と 一緒に賑やかな日々だけど介護中の人、 そうでなくても 二人で支え合って暮らしていると人は相棒を 一人置いて出
かけられないわよね…. !
岩手での生活は韓国ソウルからの引揚げの後、そして九州での 一年の生活の後、今で言うすべてが或る意味でのカルチャーショックの日々でした。
ソウルの生活は朝、コックをひねると集中暖房でスチームが各部屋を暖めるような 、チンチン電車を降りると、その向こうにモルタル造りの 一戸建ての社宅が数十軒か.. . .もっと並んでいる素晴らしい環境でした。
しかし、終戦後の岩手では、住居も木だけで 二軒長屋を作り、外地から引き揚げのため一 貫になっ た沢山の家族たちが集っていました。
学校は木造の校舎に薪ストーブの暖房、そしてすぐには理解できないようなズ ーズ一弁の方言にも 、割と早く慣れました。子供の順応力とは素晴らしいものです。今でも心からそう思います。 岩手での8年間の生活は美味しいお米と野菜、戦後の大変な時代であって も、とても健康的な日々であったと思います。 私の住んでいた、水沢(現奥州市)は 三大偉人が出たところで、蘭学者 高野長英氏。東京市長を務め、関東大震災の後、東京の復興に力を注いだ 後藤新平氏、そして斎藤マコト氏等、 三大偉人が出たところです。 三大偉人の話を聞く度に、寒さの厳しい、環境に恵まれない土地にこそ、その様な偉人が出るんだ!と思ったのを思い出します。今はあの人気者の 大谷翔平選 手もいますよね。
私は高3になる時 、父の転勤で上京しましたが、岩手の同級生など随分良い大学に入り、社会人としてもすばらしい活躍されていた方が多く、厳しい環境でこそ立派な人間が育つのだ!と又々思いました。
私は 一人っ子で育ち、父の仕事の関係で親戚の多い九州から遠く離れた 岩手で育ったのですが、寂しく思うことも大いにあったので、子供や孫に 連れ合いが増え、またそこにひ孫が増え…と皆との楽しい賑やかな時間
の毎日を送れることをとても嬉しく思っています。 現在ひ孫は4人に増えました。
集まると賑やかなものです。 ひ孫達の笑う声や騒ぐ声は老人にも、その老いた細胞の一つ一つに若い エ ネルギーをそそぎ込んでくれるような気さえします。 たくさんのエネルギーに支えられ長生きしたいものです。
先 日薬大時代からの仲良しの、そしてお互い薬局を経営し共に漢方の勉強等も長く一緒に通い、又海外旅行にも共に行きの. . . . .
長い友人が入院した との連絡を受けました。 二人とも薬局を閉じて十数年経っているのです が、うっかり連絡先を聞くのを忘れ入院しそうな病院に行ってみたり、ご 近所にお聞きしたり不安な日々でした。しかし退院したとの電話にほっと しているところです。二人とも9 0 に近い年になり、又いつこのような状 況になるか、解りませんが残りの人生仲良く大切にしたいものです。
竹野 歌於子